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禅の教え:病など「非思量」実体のない不安から逃れるための心得


「1月は行く、2月は逃げる」と云うが、本当に早いもので、1月は明日が最終となります。そして、もうすぐ季節の分かれ目である「節分」(2月3日)を迎えます。「節分」とは元来、「季節を分ける」ことから節分といい、早く寒い日々は過ぎてほしいと今日という日を無いがしろにしがちです。そして体調を崩さないか不安に成ります。

心配とは、悪い方向に思い込みや予想をしてしまうから生じるものです。雪だるま式に心配が次の心配を呼びますから、どんどん膨らんでしまい、居ても立っても居られない状態になってしまいます。例えば、病んだら「仕事が滞ってしまう」「ひょっとしたらリストラされるかもしれない」と考える。リストラになると、収入が途絶えるから、子供の教育費やローンが払えなくなってしまう。家のローンが払えなければ家を売るしかない。家族をかかえてどう暮らせばいいのかと、まだリストラもされないうちから、“破産”まで想像が膨らみ、心配で心が病んでしまう。

心配が膨らむと、社員皆で頑張って経営を立て直せばいい、という可能性も思い浮かばなくなります。先の心配を膨らませるより、今、みんなで力を合わせて何とかこの苦境を乗り切ろうと考える方がよっぽど生産性が高いのに、実体のない“心配”が邪魔をして、今を頑張ることに集中できず、手を止めてしまうのです。

現状の問題は、心配しても何も解決されません。自分たちで解決するしか手はないのです。先が見えなくても、ただただ今やるべきことを考え、集中して取り組むことが大事です。

このような場合は、心を無にすることが大事になります。心配する暇があれば、無心になって前に進むことに力を注ぐのです。このことを禅語では、「非思量」(ひしりょう)と言います。一言で言えば、「考えない」「思索しない」ということです。無心に成すべきことに集中すべきという教えです。

ああ、今日も一つネット記事断片から教えを授かった、感謝、合掌


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