男なら皆が知ってる、日本三大ブスが「仙台・水戸・名古屋」、三大美人は「秋田美人」「博多美人」「京都美人」。怒るな女子、「べっぴん」の語源は愛知とくに三河で生まれたんだというゾ
先日、TVを流して音を聞いていると面白い事を言っていたので其処で少し見た。出演は語原ハンター・放送作家わぐりたかしさん。①鮪のトロの名付け親は、三井物産の足立さん。ただ、現在の消息不明。②銀ブラとは、慶応大学から銀座までぶらぶらすること。銀座でブラジルコーヒーを飲む事を言い、銀座でぶらぶらする事では無い。③ 太鼓判とは、信玄の隠し銀?から。④やぶ医者とは、兵庫県養父市に居た名医。名医が居たら、ばった門(偽医者)の医者が出て来る。養父から来た。。。養父の方から来た。。。養父の医者。。。から「やぶ医者」の言葉が出来た。と面白い話が聞けた。昔の毎日新聞雑学辞典に出ていた様な話題。是は面白い、TVに出演されている方ならネットに情報でも有るだろうと今回「語源遺産」を調べてみた(しかしワシもヒマな奴やな)。
日常的によく使っている言葉には「語源」が存在する。そして、それがある特定の土地に結び付いていることが多々ある。現地でその言葉が誕生した背景や物語に触れ、今も語源とゆかりのある人々と交流を持つことで、言葉が持つ風景が見えてくる。現在確認しているだけで日本にはおよそ200の語源遺産があり、その半数以上を訪ねた。その中から、ベスト10を挙げてみた。
(1)島根 地団駄を踏む
「地団駄を踏む」は、古代製鉄法に由来する。かつて奥出雲では「たたら」と呼ばれる日本独特の製鉄が盛んに行われていた。日本の製鉄の中心地だった。たたら製鉄では、「地蹈鞴(じだたら)」と呼ばれる足踏み式の送風装置で炉の中に空気を送り込む。宮崎駿監督のアニメ「もののけ姫」にも、そのシーンが出てくるのでご記憶の人もいるかもしれない。ジタバタ感のあるその作業の様子が、悔しがって地面を踏みならすさまに似ていたことから、「地蹈鞴を踏む」という言葉が生まれた。その後、「じだたら」が「じだた」に、さらに「じだんだ」と音が変化して、全国各地に出荷される鉄と共に言葉が広まっていったと考えられる。
(2)東京 トロ
東京・日本橋の北詰めに「魚河岸発祥の地」と刻まれた碑が立っている。かつてこの地に魚河岸があった。そこから徒歩数分の所に、「トロ」の語源遺産「日本橋吉野鮨本店」がある。創業明治12(1879)年。昼時はいつも行列ができるような大繁盛店だ。この店で「トロ」という言葉が誕生したのは、大正7、8年ごろのこと。それまでは、マグロの脂の多い部分は「大アブ」、少ない部分は「中アブ」と呼ばれていた。まだ流通が発達していなかった当時、傷みやすい脂身は、店で出すようなものではなかった。庶民が自宅で、ネギと一緒に鍋に放り込んで、「ねぎま」として食べるような下魚だった。ところが吉野鮨2代目主人が、高級志向のライバル店に差をつけるための戦略として、仕入れ値が2、3割安い腹の身を使ったすしを扱い始めた。新鮮なものさえ選べば、そもそもうまい。目新しさもあり、たちまち大ヒットした。しかし、それまで店で扱うようなネタではなかったので、一般向けには名前がない。そこで常連さんが、「トロっとしているから」という単純な理由で「トロ」と命名。脂の多い部分は「大トロ」、中ぐらいの部分は「中トロ」となった。ちなみにネーミングをした常連さんは、戦前の三井物産の係長「安達一雄」さんだと判明している。
(3)新潟 のろま
「のろま」は佐渡。地元の新穂歴史民俗資料館で、「のろま」の語源となった国の重要無形民俗文化財「野呂松(のろま)人形」が有る。江戸時代に一世を風靡した道化の人形芝居で、野呂松勘兵衛(のろまつ・かんべえ)が操ったのが、「のろま人形」だ。佐渡は古くから芸能の島、能楽の里として知られてきた。江戸時代には200以上、今でも30以上の能舞台があり、島の人たちの生活に根付いている。かつてそうした能舞台の幕あい狂言として、「のろま人形」が人気を博し、それが今も日本で唯一、この島に現存している。普段は資料館で展示されている「のろま人形」は、祭りや島内の旅館の客からお座敷のお声が掛かると、人形を保存伝承している広栄座のスタッフともども、資料館からご出勤となる。人形の使い手たちが操る「のろま人形」は、佐渡弁丸出しで、掛け合い漫才のようににぎやかにしゃべる。主役は、いつもとぼけたキャラの木之助。ドジでまぬけで、愛嬌のあるのろまだ。最後は必ず放尿シーンで終わり、会場の笑いをドッと取る。
(4)愛媛 ひとりずもう
広島県の尾道市から、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を縫いながら四国へと渡る「しまなみ海道」を行く。向島、因島、生口(いくち)島、そして四つ目の島が大三島(愛媛県今治市)である。瀬戸内海の海運の要衝でもある大三島にある「日本総鎮守・大山祇(おおやまづみ)神社」は、古くから朝廷や戦国武将たちの信仰を集めてきた。名のある武将たちが戦勝祈願にと奉納した歴史的なよろい甲冑や伝家の名刀が数多くあるため、島は「国宝の島」とも呼ばれている。その大山祇(おおやまづみ)神社で、年に2回、春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)に、「ひとりずもう」(正式には「一人角力」)が奉納される。春は五穀豊穣を祈り、秋は実りに感謝する。舞台となるのは特設の土俵。主役は一力山(いちりきやま)という島の青年代表が担う力士役。行司役に呼ばれて一力山が土俵に上がる。対戦するのは、目に見えない稲の精霊だ。勝負は3本勝負。一力山が、行司に促されて独りで四股を踏み、独りで仕切り、独りで押したり引いたり、跳んだりはねたり、文字通りの「ひとりずもう」を取る。結果は必ず、精霊が2勝1敗で勝ち越す。ご機嫌になった神様が、また豊作をもたらしてくれるという寸法だ。「ひとりずもう」は、この国の命運が懸かっている意外と責任重大な神事だったのだ。
(5)兵庫 やぶ医者
姫路駅から播但線に乗った先の但馬地方の養父(やぶ)市。妙見山や氷ノ山といった標高1000メートル超級の山々に抱かれ、古くから但馬牛の市で栄えた地だ。「やぶ医者」の語源には諸説あるが、松尾芭蕉の高弟で彦根藩士の森川許六(きょりく)が編んだ『風俗文選』によると、ここ養父市が由来だという。その昔、養父に、死んだ人をもよみがえらせる名医がいた。その名医を慕って医術を学びに来る者も多かった。ところが、「自分は養父の医者の弟子だ」「養父から来た」など、勝手に「養父」の名前を利用するインチキな医者が蔓延しだした。やがていつしかインチキが多勢を占め、本来、名医を意味していたはずの「養父医者」は、ヘボ医者を意味するようになってしまった。ちなみに養父市にも、他地域と同様、医師の集まりである養父市医師会がある。正真正銘の「やぶ医者」の総本部だ。養父市医師会は昨年、へき地医療に身をささげている若手の医師を顕彰する「やぶ医者大賞」を創設した。
(6)滋賀 急がば回れ
滋賀県草津市、江戸時代、京都への道を急ぐ旅人は、ここで選択を迫られた。このまま東海道を真っすぐ進めば、瀬田の長橋を渡り、琵琶湖をぐるっと回って大津、そして京の都へと至る。一方、丁字路を右に曲がって脇道を行けば、矢橋の船着き場へ着き、そこから琵琶湖を水路で大津までショートカットできる。ただし季節によっては風が強いので、舟が欠航、あるいは途中で引き返すこともある。場合によっては沈没して命を落とすリスクもある。そこで、この地でこんな歌が生まれた。
武士(もののふ)の 矢橋(やばせ)の舟(ふね)は
早(はや)けれど 急がば回れ 瀬田(せた)の長橋(ながはし)
急ぐなら、むしろ陸路で琵琶湖を迂回することをお勧めする。これが「急がば回れ」の意味なのだ。
(7)鹿児島 チンタラ
「チンタラ」は、薩摩弁「チンチン・タラタラ」の略。「チンチン」は、「ゆっくり」「少しずつ」の意味。かつて薩摩地方では一般的だったカブト釜式蒸留機(通称、チンタラ蒸留機)を使った焼酎の伝統的な蒸留法に由来している。阿久根市にある大石酒造では、昔ながらの製法を復活させ、ゆっくり、じっくり、チンチン蒸留して、タラ~リタラタラ、1滴1滴を液化させて、味わい深くおいしい焼酎を造っている。そんな焼酎由来の「チンタラ」は、やがて明治維新をきっかけに大勢の薩摩藩出身者が、軍隊や警察、学校の指導者になったことから、日本中の人々の生活に紛れ込んでいったと想像される。
(8)愛知 べっぴん
「べっぴん」は、東海道五十三次吉田宿(愛知県豊橋市)にあった割烹「織清」名物の「鰻の蒲焼き」を売り出す際に考案されたキャッチコピーの一部だった。名のある文人に頼んで「頗別品(すこぶるべっぴん)」と漢字三文字を書いて店先に掲げたところ大ヒット。要するに「すこぶるうまい別格の品」という意味。噂はたちまち東西に知れ渡り、やがて「別品」という言葉は、鰻に限らず使われるように。それがいつしか、すこぶる美しい別格のご婦人、「別嬪」に転じた。
現在、吉田宿本陣跡で、織清の流れをくむ老舗鰻店「丸よ」が営業している。丸よの鰻丼は、元祖「べっぴん」の織清式に、いったん蒸してから炭火で焼き上げ、焼いた皮を上にしてご飯の上に載せている。
(9)徳島 うだつが上がらない
日本の道百選にも選ばれている脇町(徳島県美馬市)は、まさに「うだつ」ストリート。見上げれば至る所に立派な「うだつ」が上がっている。そもそもは建築用語「卯建(うだつ)」。屋根の両端の壁面から突き出したしっくい塗りの防火壁のことだ。藍染めの原料である阿波藍で財を成した脇町の裕福な藍商たちが、立派な「卯建」のある家を競って建てるようになり、次第に「卯建」が富や成功のシンボルとなった。その一方で、逆にいつまでも出世や成功することができず、屋根に「卯建」を上げることのできない家を、「うだつが上がらない」と表現するようになった。その言葉が、脇町から出荷される阿波藍と共に全国へ広まっていった。
(10)山形 つつがなく
「つつがなく」は、漢字で「恙(つつが)無く」。「恙」とは、ツツガムシ病、またはこの病気を媒介する「恙虫」のことで、かつては、致死率が50%近い厄介な病気として恐れられていた。鶴岡駅前から、バスで1時間。古くから山岳修験の霊場として知られる出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の中心、羽黒山山頂の出羽三山神社へ。ここで毎年大晦日に、勇壮な火祭り「松例祭」が行われるが、これは、ツツガムシに似せて作った巨大な松明に火を付けて、ツツガムシを退治するというストーリーになっている。ツツガムシのいない、平穏無事な新年を、「つつがなく」迎えたいという願いが込められている。
日本三大ブスは、仙台・水戸・名古屋。何故そう言われるようになったのか?名古屋と水戸は、似たような理由。(仮説だが?)名古屋は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地が何でも、尾張又は、三河でそこの美人だけを城へ上げたのでブスしか残らなかった。とか…。 水戸は、佐竹公が秋田にお国替えになった時、美人を秋田に連れて行ったとか……。それで水戸の御老公は、ブスしか居ない水戸が嫌で諸国漫遊に出かけたとか…。それでは、仙台はというと、伊達家三代綱宗の事件。江戸にて、悪臣達にそそのかされ、吉原通いをしてしまった綱宗、吉原・三浦屋の高尾大夫を気に入り、身請け話しが出たが断られ、斬ってしまったのです。その高尾大夫の怨みで、仙台にはブスが多いとか……。 ワシが着目したのは、仙台・水戸・名古屋いずれも太平洋側。それに反し、三大美人も含め、美人と抄される場所は、すべて日本海側なのだ。秋田美人・庄内美人・新潟美人・京美人・博多美人……。特に秋田は日照時間が日本で一番短く、親子三代に渡り秋田に住む女性の肌を見ると、確かに肌の極めは細かく色白だ、桜田淳子も。欧米の白色系女性と比べると、欧米は非常に荒く、ダントツ秋田の女性の方が細やかな肌をしている。秋田美人には俗に雄物川系美人と米代川系美人に分かれるそうだ。歌手の藤あや子さんは、雄物川系ですかねww ここで、名古屋出身で女性を敵にしたくないワシが「もの申す」。人として時代によって美人の基準が変わりますが、形では無くハートが美人であることが一番ですヨ。水戸・名古屋については徳川御三家の水戸藩・尾張藩が、仙台については派手好きの伊達政宗が、美人をみんな江戸に連れていったから、地元に残ったのはブスだけになった、と言われている。仮にそれが本当だったとしても、江戸時代と現在では美人の基準がだいぶ違うのであてにはならない。(浮世絵を見れば明らか)が、名古屋の街を歩いていると美人とはとても言えない人が多いと感じる、名古屋近辺出身の、兵藤ゆきさん、青木さやかさん、光浦靖子さん系統の顔が多い。ただ、名古屋の人はへりくだりながらも、実は非常にプライドが高いので、気をつけてちょだい。名古屋の人が「名古屋にはブスしかいない。」と言っても、決して「そうですね」と言ってはいけません。「そんなことないですよ。竹下景子さん、川島なお美さん、加藤あいさん、安藤美姫さんなど、美人はたくさんいますよ。」と言って下さい。ん?フォローになってない?