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最終回の「朝が来た」ドラマの狙いは、ズバリ「大阪復興」と総務省地方創成NHKの企画ダ!維新か非維新か-。選択を迫った大阪ダブル選挙が雌雄を決し、橋下徹を落とした大阪大衆いや!全国大衆迎合への批判なのだ


今日、いよいよ最終回を迎えるNHKの連続テレビ小説『あさが来た』。「日本の朝を明るくしたい」と始まったこの朝ドラはその言葉通り、日本の朝を元気にしてくれた。幼稚園に子供を送ったママ友は、新次郎派か五代様派かで盛り上がり、ツイッターでは放送終了直後から「あさ絵」が次々と投稿されたという。新次郎(玉木宏)が亡くなったことに、2日の最終回を前にしてネット上では「新次郎ロス」が広がっている。 1日の回では、倒れた新次郎が加野屋のみんなに別れを告げた後、あさ(波瑠)とふたりだけになり、あさに抱かれながらついに息を引き取る。た最終シーンは、亡くなった夫の新次郎(玉木宏)があさ(波瑠)の目の前に現れ、菜の花畑に囲まれた中で再会を果たすというものだった。 ネット上では「涙なしには見られない」「切なくて、画面がぼやける」など、新次郎との別れを惜しむ声が相次いだ。 朝のドラマでは放送直後に始まった「あさイチ」に、あさを演じた波瑠が生出演し、ドラマの裏側も話して盛り上がった。高視聴率の「あさが来た」は2001年以降の朝ドラでは平均最高視聴率を記録するのは確実とみられている。

ウラ読み、近代史ネタが好きな全学連落ちの、すべての社会現象について「その本質は何!?」とウンチク好きな、捻くれ還暦爺が「朝が来た」ドラマの狙いは、ズバリ「大阪復興」と総務省地方創成NHKの企画と読んでいる。維新か非維新か-。選択を迫った大阪ダブル選挙が雌雄を決した。これから問われるのはリーダーの実践力だが、ことさら経済は待ったなしである。150年ほど昔の話だが、明治維新後の大阪で、その実践力に優れ、今も「恩人」と呼ばれるリーダーがいたのだう。薩摩藩出身のその人は、東京で亡くなったのに、わざわざ大阪で葬儀が営まれた。経済界から市民まで、約4300人が会葬してその死を悼んだという。また、知る人ぞ知る有名人でもあった。例えば、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」によると、坂本龍馬の大切な友人だった。織田作之助に至っては、「明治の大阪の指導者として、右に出る人は一人もいない」と書いたほど。ともに大阪で新聞記者をしていた作家らの目には、この人、つまり五代友厚(1835~85年)という薩摩人は、なかなかの傑物と映ったのだ。

その五代、現在放送中のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で、毎日のように画面に登場している。主人公・白岡あさ(モデルは女傑と呼ばれた三井家出身の実業家・広岡浅子)の師、メンター的存在として描かれ、女性ながら銀行や鉱山事業を手がけていくあさに、知識や発想を与え示唆する人物…という役どころだ。とはいえ、実際に2人が出会ったという史実はないらしい。ドラマはあくまでフィクションだが、五代が敷いた近代経済インフラの上に、あさの事業が成り立っていったのは事実である。そう広くもない大阪財界の有名人同士、広岡浅子と五代に面識があった…と想像するのも楽しい。

では五代の何がどうすごいのか?まずは、大阪商工会議所を創設して初代会頭を務めている。春の風物詩「桜の通り抜け」で知られる大阪造幣局や現在の大阪取引所、大阪市立大学の前身を創設したのも五代だ。企業では、大阪製銅会社や阪堺鉄道(現南海電気鉄道)を設立、大阪商船(同商船三井)の開業にも尽力した。これこそが、五代が「近代大阪経済の父」と呼ばれるゆえんである。昨年は、五代の没後130年にあたる。大商の「大阪企業家ミュージアム」では企画展「大阪の恩人・五代友厚」を開催されていた。「五代友厚の先進的で幅広い業績を再評価してもらえれば」と認知度アップ目的にだ。企業家のミュージアム自体珍しいが、商都大阪を象徴する企業家105人を顕彰している。1人目はもちろん五代なのだが、新しいメンバーを見ると、インスタントラーメンを発明した安藤百福(日清食品創業者)や佐治敬三(サントリー2代目社長)の名があった。おもしろいのは、大阪出身者は20人にすぎず、鹿児島の五代や、台湾の安藤など、出身地が30以上に及んでいる点である。時代性もあるだろうが、大阪という都市がそれらの才能を集め、花を咲かせる土壌となったのは間違いない。同族経営から脱却し、資本と経営が別の「株式会社」という概念を持ち込むのは、難しかったはずである。それでも五代は旧態依然とした大阪商人らを説得し、新しい合弁事業の可能性を説いたそうだ。宮本又郎館長によれば「近代大阪経済のインフラを整備した」のである。 さて、盛大だった五代の葬儀。当時、街のおかみさん連中までが「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだそうだ。死後残ったのは100万円の借財だったというから、私利私欲なく大阪のために働いた。財閥もつくらず企業に名も残さなかったゆえの、知られざる恩人である。

三井家の特徴は家系の広がりだ。三井財閥創始者・三井高利の男系一族の「本家6家」と、女系一族の「連家5家」で「三井11家」を成したのだ。拡大を見せたのは三井財閥の事業も同様で、世界一ともうたわれる英国の名門、ロスチャイルド家に匹敵する大富豪と呼ばれた。『三井のあゆみ』によれば、1930年末の全国主要会社433社のうち三井系企業は35社あり、資本金では三大財閥で最大の約15%を占めたという推計値が残るという。家業の発展とともに、三井家の閨閥もさらにすごみを増していく。住友家や鴻池家など他の豪商だけでなく、徳川宗家16代目当主・徳川家達などもその閨閥図の中に含まれる。さらに、公家の最高格とされる摂家ともつながり、なんと天皇家の外戚にも当たる。それが三井家なのだ。最近の人物を見ると、日本最大の企業であるトヨタ自動車の豊田章男社長や、その父である豊田章一郎名誉会長ともつながっている。まさに豪華絢爛の閨閥だ。

「あさが来た」ヒロインの白岡あさのモデル、広岡浅子は三井家の人間だ。大同生命保険の創業に参画するなど、明治~大正期の実業界でやり手として名をはせた姿からは想像しにくいが、広岡浅子はもともと、三井11家の一つ、小石川家6代目当主の四女として生まれた生粋の財閥令嬢なのだ。しかし、豪傑で才気にあふれた彼女でさえ、このころの三井家を取りまとめようとすればてこずったという。11家から成る三井家は「名門」の名が似合う日本最大最強の大富豪だったわけだが、内部ではもめ事が絶えない一族であった。これには三井財閥を外から支えた専門経営者たちも頭を悩ませたが、実際、三井家の“お家騒動”は熾烈を極めたようである。さかのぼれば、1774年に一度、11家が3グループに分かれて対立し、店や資産を3分割した例がある。各家への生活費の支給方法にも、内輪もめの種が転がっていた。生活費は、それぞれの家に定められた「家産」の分配比率に従って支給されたが、この比率が三井総領家の北家が100分の23、その他の本家5家が100分の10.5、女系の連家5家が100分の3.9といった具合に、厳密に格差がつけられていた。ただ、第2次世界大戦後の財閥解体で三井系企業との関係が名実共に断たれた後は、三井家のグループへの執着は驚くほどなくなっているようだ。いまや、三井11家の跡取りであっても「就職活動でごく自然に住友グループの企業を受け、会社側から『ご家族に相談された方がいい』と諭された」といった話もある。ちなみに、総領家の現当主は今、東京・赤坂の歴史ある建築事務所に建築家として会社勤めしている。

大阪は今や衰退の危機なのだ。そう!シャープ、カメラのミノルタ、大和銀行(現りそなHD)、トヨタの傘下になったダイハツなどなど。

豊臣から徳川への権威移行、首都は京都から東京へ、天皇も御所から皇居へ。同様に企業の本社もこぞって東京へ、伴って住民移行にて産業、経済、文化も東京に一極化。江戸時代から始まった、天下の台所として江戸初期は大阪は日本一だったが、どんどん江戸に取られて行って衰退していった。

元々「自由市場」的な風潮が強いために、住民が総出で「ワガママ言い放題」となってしまったこと。自分達の地力が落ちてきたり、相対的に自分達よりも力のある競争相手が出てきたときにも「まとまる」ことが出来ず、結局、淘汰されてしまう運命。もうひとつが生活保護。大阪府予算の半分が生活保護だったら何にも手をかけられない。特に最近話題になっている「ホームレスが消えたら、オレオレ詐欺の頻発と貧困ビジネスで手堅く稼げるので流行っているという民両親の歪み!橋下徹を推さなかった大阪の民。横山ノックや西川きよしを政治参加させるが、平成の坂本龍馬の橋下徹の構想、野望にNO!宣言した大衆マインド(これは全国大衆化の一端に過ぎない)!!

「朝が来た」は大阪復興!橋下徹なのだ!!

そして昔と今と違ってる事が一つ、肝心な事をワシは言いたい!、それは中国の存在。大阪から東京で昔はストップしていたが、今は東京から上海、香港に流れていった。この流れは絶対的で止めようがない、大阪から東京への流れと同じ原理。つまり日本の衰退なのだ!1億総活躍、皆、頑張ろうぜ!ちゃんと生活しようぜ!


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