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「天上天下唯我独尊 甘茶かけ 誕生祝う 花まつり」この世の中で「自分」という個性を持った人は、ひとりしかいないから自信を持って歩みなさい!


名古屋の昔からのお土産の定番、大須ういろう。この大須というのは場所の名前です。一昨日この大須にある大須観音四月八日のお釈迦さま(仏教の開祖)の誕生日に行われる仏教行事を花まつりが催されました。お釈迦さまのお誕生日を祝って全国の寺院で花まつりが催されるのです。人生には『生・老・病・死』の4つの苦しみがある、四苦八苦から4月8日なのだ、とテレビで言ってました。一般には四月八日に行いますが、地方によっては旧暦の四月八日、あるいは、五月八日のところもあります。本来は、灌仏会(かんぶつえ)という名称で、浴仏会(よくぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、竜華会(りゅうげえ)などの別名もありますが、宗派を問わず使われる花まつりという名称が今ではこの行事の代名詞となっています。また、花まつリを幼稚園や学校の行事としている場合もあり、お寺だけの行事でなく、一般の行事としても浸透してきています。お釈迦さまは、今から2500年前、ヒマラヤのふもと、現在のネパール南部ターライ盆地にあったカピラバスツーで国家を形成していたシャーキャ族の王子としてシュッドーダナ(浄飯(じょうぼん))王、マヤ(摩耶(まや))夫人の父母のもとに、ルンビニーの花園で生まれました。王子として何不自由なく育ちましたが、29歳でその地位を全て捨てて出家し、その後悟りを開いてブッダとなり、世の中に仏教を広めていきます。 花まつりはいつからはじまったの?日本では、推古天皇の時代、六〇六年に大和の元興寺(がんこうじ)で行われたのが初めといわれています。明治時代にお釈迦さまのお誕生日である四月八日がちょうど桜の季節ということもあって花まつりという名称が提唱され、広く一般に使われるようになりました。 花まつりに何をするの?当日は、お釈迦さまのお誕生日を祝う法要が行われます。お寺の境内には花御堂(はなみどう)がつくられ、その中にお釈迦さまの誕生仏が安置されます。参拝に来た人たちは、誕生仏の頭上に竹の杓で甘茶をかけてお祝いします。このように甘茶を灌(そそ)ぐ行事ですので灌仏会というのです。花御堂は、お釈迦さまが生まれたルンビニの花園を表したもので、桜、れんぎょう、木蓮などの花々で美しく飾った小堂です。誕生仏は、右手は天を指し、左手は地上を指した姿をしています。これは、お釈迦さまが産まれた直後、七歩歩いて、右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ(が)ゆいがどくそん)」と話したという伝説に基づいています。

誕生仏に甘茶かけるのはどうして?甘茶をかけるのは、お釈迦さまが生まれた時、九つの竜が現れて生まれたばかりのお釈迦さまの体に清浄の甘い水を注いで産湯としたという説話に基づいています。お釈迦さまの誕生を祝うとともに4月からの新学年、新年度の新しい門出が素晴らしいものになるようにという思いも込めてお釈迦さまに甘茶をかけてください。

本日は日曜日なので雑学ハンターワシの釈迦勉強に付き合って頂戴。

『天上天下唯我独尊』と云われた、と伝えられています。釈迦を崇(あが)める言葉として使われています。

しかし、しばしば誤解して使われることがあります。『この世で一番尊いのは自分である。なぜなら自分という存在はこの世に一人しかいないからである。』という拡大解釈から『自己中心』とか『傍若無人』と同じ意味で使われることがあります。このような意味だと思い込んでいる場合は、正しい意味を知り、これからの生き方に生かしていただきたい。わかりやすく言うと『自分という存在は誰にも変わることのできない人間として、生まれており、この命のまま尊い。』ということが本来の意味です。現実の世界に置き換えると、人間の命の尊さは、能力、学歴、地位、名誉、財産などの有無を超えて、そのままで尊い『自分』を見だすことの大切さを教えている言葉なのです。世の中は、とかく何事にも優劣をつけ他人と比較して優越感に浸ったり、劣等感に陥ってしまいがちてす。しかし、この言葉の真意を知れば、この世に唯一無二のかけがえのない自分という存在がオンリ-ワンだということに目覚めれば、他人と比較して傷つく必要など全くないものであると同時に、他人より優れたものがあったからといって、おごり高ぶるものではない、ということに気づくはずです。

釈迦は一国の王子という裕福な家柄に生まれたにもかかわわらず、その全てを捨てて出家したのは次の理由によるものでした。『人間が、権力や財力などあらゆるものを手にしたとしても逃れられない恐怖がある。それが死である。』そのことに目覚めたとき、地位や権力などどうでもよくなったのです。命ある者には必ず『死』が訪れます。しかし、『死』の恐怖から逃れようとしても逃れることはできません。それでも、人間はどうしたら死の恐怖から逃れられるのだろうか、と悩み考えます。そこに『天国』とか『神』など知的観念の元に様々な思想家が救われる方法を唱えましたが、釈迦は『梵網経』という経典の中で、それを一刀両断に『妄想』だとして切り捨てています。釈迦のいう『一切』とは何か、という問いに対し、物体、感触、観念だといっています。そして『感覚によって得たものを知識根拠とせよ』といっています。つまり、死とは何か、と観念的に唱えてもそれは頭で考えたことで妄想である。『知識というのは、実践して感覚によって得たものでなければすべて妄想に過ぎない』ということを言いたかったのだと思われます。

これを現代社会に当てはめてみると、特に日本人は知識や情報に反応しやすい特性があるようです。知識だけでは何も機能しません。そこに実践が加わることによって感覚で理解できるようになります。そこに至って初めて知恵が働き結果に結びつくのです。高度情報化社会に生きる現代人は、とかく知識が豊富であることが、時代の先端を走っている、と考える風潮があります。しかし、それだけでは単なる『物知り』の域を超えることはできないでしょう。そこに実践体験が伴われて初めて知恵が生まれ、生かされていくことを知らなければなりません。

仏教では、『この世に偶然起こることは何もない。』という教えが基礎となっています。釈迦は、『結果に偶然はない。物事には全て原因がある。』と教えています。これを仏教では『因果応報』とか『カルマ』といいます。この中には、不幸な結果だけではなく、幸福も含まれます。至るところで、『不運』に関する話があります。裕福で健康に恵まれた他人を見て、『幸運』だ、と多くの人が言いますが、仏教では『運』というものはない、と教えています。良い原因が良い結果を生み出し、悪い原因が悪い結果を生み出すのです。もしも私たちが不幸だとしたら、私たち自身が原因を作り出したからであり、誰のせいでもないのです。善良な行いをしている人に不幸なことばかり訪れる、という人がいます。このような場合、釈迦は過去生の悪いカルマを今生で刈り入れていると教えています。これとは逆に、悪い行いの人が経済的に栄えたり、社会的に高い地位を築いたりしている人を多く見かけます。しかし、彼らの蒔いている悪い種はいずれ不幸を実らせることになる、ということを私たちはよく見てきています。善も悪も、全て私たちの想念が生み出すものであり、良かれ悪しかれ現在の結果は自分の想いの通りになっている、ということです。私たちは、我欲の執着からなかなか逃れられません。特に現代のようにめまぐるしい競争社会の中で生きていると、自分では悪意がないつもりでも、誰かを傷つけたり犠牲にしていることが多々あります。それに気づかずにいるうち、その因子はやがて自分にかえってくることになる。また、他人を陥れようなどと悪意を持った想いでいると、やがて自分に跳ね返ってきます。想いが将来の結果を招くことを知れば、利己的な考えやネガティブな想いを持たず、利他的にポジティブな想いで生きていくことが、やがて自分に幸福がもたらされることになります。全ては、日ごろの心がけ次第ということです。

命あるものは、誕生し成長しやがて老いて死を迎えます。物体も歳月の経過と共に、破損し朽ちていきます。雄大な山も長い年月の間に姿・形が変わっていきます。人の心も変わり続けていきます。諸行無常という教えです。平家の盛衰を著した平家物語の一説に出てくる言葉で知られています。『平家にあらずんば人にあらず』…隆盛を極めおごり高ぶった時代の平家の権勢を表した有名な言葉です。『おごれる平氏久しからず』…その平氏が源氏に敗れ、哀れに滅び去ったことを揶揄(やゆ)した言葉です。平家でない者は、人ではない、とまでその栄華を誇った平家でも、永遠に続くことはなかったのです。釈迦は、自然も、人も、心も、物体も…あらゆるものはそのままで留まっていることはなく、必ず姿、形を変えていく、ということを説きました。あらゆるものの中には、富や権力や名声なども含まれます。歴史上においても、現代社会においても、功成り名を遂げた成功者といわれる人でも、晩節には一代で築き上げた名声を一瞬にして失い、哀れな晩年を迎えた人を私たちは何人も知っています。歴史とは、『諸行無常の歴史』と言い換えることができる仏典では、三つの真理が説かれています。

①悲しみは全てにやってくる。 ②永遠のものは何もない。 ③『我』さえも常に移ろっている。

この中で最も重要なのは②で、あらゆるものは変わり続ける、その変化は良くも悪くもなりうる、という法則です。現代社会に生きる私たちにとって、この教えは様々な心得を示しています。現在、経済的にも社会的地位にも恵まれ、家族全員が健康で幸福の頂点にいたとしても、このままの状態が永遠に続くとは限らないということです。将来にわたって幸福であり続けるためには、日ごろから良い思いをもって生きていくことが大切だということです。もしも、この状態に慢心して邪念や我欲に執着したりすると、やがて不幸に見舞われてしまうということです。また、現在不幸な状態にあえいでいたとしても、日々良い思いをもって生きていれば必ず幸福が訪れるときがやってくる、ということです。

陰と陽のバランスをとって生きること

あらゆるものは、一対になってバランスをとりながら成り立っています。天と地、太陽と地球・陸と海、男と女…このように必ず一対の両極をなしています。仏教では生きていくための規則として、陽(積極的)陰(消極的)という考え方があります。これを五戒、八正道といいます。最初の5つは陰の規則です。(五戒)

①殺人など残酷な行為をしてはいけない。 ②盗んではいけない。 ③不貞などの性行為をしてはいけない。 ④嘘をついてはいけない。 ⑤麻薬や酒など心身に毒となるものに酔ってはいけない。

つまり、してはならない行為です。これは誰にでもわかる常識なのですが、多くの人が幸福になれない理由に、陰の規則(五戒)を実践するだけで陽の規則(八正道)の実践が不十分であると指摘します。何も悪いことをしていないのに、不幸だ、と思っている人は、悪いことしていない代わり良いこともしていない、ということになります。つまり、『悪いことはしない。』『良いことをする。』という両極をいずれも実践しなければバランスを崩してしまうという教えです。悪いことはしない。』というだけでは、一極に偏っているための物事が成就しない、ということです。釈迦は、陽の規則『八正道』の教えを説いています。

①正しい理解(正見) ②正しい思考(正思惟) ③正しい言葉(正語) ④正しい行為(正行) ⑤正しい仕事(正業) ⑥正しい努力(正精進) ⑦正しい気づき(正念) ⑧正しい集中(正定)

この八正道の教えは、奥の深いものがあります。言葉で、解説することは出来てもそれだけでは意味を持ちません。ただここでいう『正しい』とは、我執を捨て無私の考え方をもって実践することが、基本に流れています。人間は、我欲、我執のがんじがらめになっている一面があります。自己中心的な発想で捉える限り、誤った判断、誤った行為を行ってしまいます。読んで聞くだけでは、この深淵に近づくことは出来ません。大切にことは、単に言葉に従うとか規則に従うことではなく、日常的に毎日実践し習慣化することにあるのです。

今日の釈迦の教えを勉強で自省することも多いが、解っていても明日からはまた煩悩に振り回される日々だろう。釈迦が難行苦行の末に悟った真理は、2500年以上もの時を超えた現在でも、生きる上での様々な知恵を授けている。仏教の経典を丸暗記したり盲目的に従うだけでは、殆ど意味がない。肝心なことは、実践すること、体験すること、しかも気が向いた時ということではなく、常日頃から生きていく日常の中で習慣化すること。自分にも言えることだが、高度情報化社会に生きる現代人は、知識のあることが優れている、と思い違いしている風潮がある。知識は、身につけて機能するものでなければ、どんなに釈迦の教えを頭の中でマスタ-しても大した役には立たない。生きる知恵に特効薬はないということを知ることが、大切。当たり前のことだけど・・・納得した還暦爺の今日でした。


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