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おいテレビ、これは割れる事で衝撃から守るために作られた亀裂で、エキスパンションジョイントという建築技術だぞ。建築会社が悪いみたいに報道するな!本丸400年前の清正の築城技法もスゴイ!


メディアでマンションが割れたという投稿が取り上げられ、あたかも構造上の問題のように言われておるが、実際はエクスパンションジョイントという建築技法で割れることで衝撃から建物を守る現代建築技法なのだ。「TVのワイドショー関連の皆さま、悲報や建設会社を悪者にしてスクープ写真ばかりを狙い、報道の本質を忘れるとこの様な無知識を露呈してしまうゾ!」。視聴者が鵜呑みにして「ああいうタイプのマンションは危ない!」と風評が出たら怒られるゾ!

元建築業界OBの還暦爺に一応説明させてもらう。

エクスパンションジョイントとは?

エキスパンションジョイント (Expansion joint、エクスパンションジョイント) とは、異なる性状を持った構造体どうしを分割して力を伝達しないようにする継目のことをいう。一般的にエキスパンションジョイントが必要となるケースは①水平力に対する場合②地盤の沈下に対する場合の2種類である。①は、2階建てと平屋のように揺れ方が異なる建物が隣接する場合、互いの水平変形量が最大となったときでも、ぶつからないように隙間をあけておくものである。②は軟弱地盤上に重さの異なる建物が載る場合に上部構造だけでなく、基礎も分割してそれぞれの沈下量が異なっても不同沈下を生じさせないために設けるものである。また、コンクリートや鉄は温度差によって膨張や収縮を繰り返す。このため、壁や床にひびが入り、建物の寿命を短くしてしまう。横に細長い巨大な建造物等ではこれが顕著である為、これを防ぐ為に、20〜100mmの隙間(クリアランス)を設け、アルミやステンレスなどの金属のカバーを取り付けて建物同士を接合する。また、平面的にL字型、凹型の建物や渡り廊下でも、部分的に大きな荷重がかからないようにエキスパンションジョイントが設けられていることが多い。

ワシが驚いたのは熊本城だ。天守閣の瓦が崩れていた。 あれ、実は倒壊しないようにわざと簡単に落ちるようにしてあるのだ。本丸へのダメージを肩代わりさせるための機構で、いわゆる昔の人の知恵ってやつで、地震が起きた時は速攻で瓦を落とすことで屋根を軽くする意図がある。震度7でもびくともしない加藤清正が400年前に築城した熊本城に感銘。日本家屋は地震に対抗するのではなく、地震の力を受けて流して最小限の被害、又は後に修繕復興のしやすい様に作ってある。瓦屋根が倒壊し易くなったのは建築法が改正されて、「瓦は落ちないように」となってから。

「あれ観てたら勇気湧きます。半端ねえっす」など賞嘆の声が聴こえるが、城が人に勇気を与えるなんて素敵な話だ!ということで今日は「真田丸」に出てくる加藤清正の築城戦略のコト。「1596年(慶長元年)9月1日に、豊後地方でM7.0前後の地震が発生、この地震から4日後の9月5日、今度は畿内でM7.5前後の内陸直下地震が発生、加藤清正が地震の直後、300人の手兵を連れて秀吉のもとに登城し城門を固めるとともに救助活動を行い治安の維持にあたった」。今回の地震では屋根瓦や石垣が崩れるなどの被害があったが、その中でほぼ損害のなかった「宇土櫓(うとやぐら)」が話題になっている。熊本城公式ホームページ熊本城は1607年、茶臼山と呼ばれた丘陵地に加藤清正が当時の最先端の技術と労力を投じて築城した。築城当時の建物、石垣はほぼ無事今回の地震では本丸の屋根瓦や石垣が崩壊した。しかし、築城当時の部分はほぼ崩れていないという。県の象徴である熊本城も国の重要文化財である長塀が倒壊するなど被害を受けたものの、倒壊を免れたことが勇気を与えている。 「宇土櫓」だ。 築城の名手として知られる加藤清正により、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて築城された熊本城だが、西南戦争で天守を含む御殿など主要な建物は焼失した(現在の天守は昭和時代に再建)。焼失を免れ、当時の姿を残しているのがこの「宇土櫓」だが、今回の地震でも倒壊しておらず、加藤清正や400年以上前の築城技術を称賛する声がネット上で数多く上がっている。

西南戦争で西郷隆盛が攻め落とすことができなかった難攻不落の城、熊本城。豊臣秀吉の家臣であった猛将・加藤清正が築いたこの城には、隠された「野望」があった――。加藤清正が築いた熊本城。鉄壁の防御を誇っており、川を利用した堀や堅牢な石垣、迷路のような本丸までの道のりなどが侵入者の行く手を阻む。そんな熊本城で、天守を守る上で要ともなる存在が、巨大な宇土櫓だ。熊本城の西側に張り出すような場所に建てられており、本丸を守るための重要な拠点であった。櫓の内部には狭間(さま)と呼ばれる鉄砲を撃つ穴があり、300メートルほどの範囲まで威力があったという。この他にも、侵入者に対して石や煮えたぎった油を落とす「石落とし」など、本丸を守るための防御システムが満載だ。 そしてこの宇土櫓、防御の要なだけあって、石垣もかなりの高さがある。20メートルもある石垣は、6階建てのビルの高さに相当する。その高さは熊本城随一だ。反り返った石垣は「武者返し」と呼ばれ、きつい勾配が侵入者を苦しめる。この石垣の場合、角度は実に70度。クライマーの動きも、おのずと慎重になる。 進むごとにどんどん急になっていく石垣、登るほど勾配はキツクナリ、後半はほぼ垂直で振り落とされるかというくらい。これを当時は鎧を身に着けて登るのだから、なおさら容易ではなかったはずだ。まさに、難攻不落の名にふさわしい鉄壁の防御だ。では、加藤清正はなぜこの城をつくる必要があったのだろうか。その謎を解くカギは、本丸御殿に隠されている。城主である加藤清正の住まいであり、政務を取り仕切る場所でもあった本丸御殿にはさまざまな部屋があった。全体に格式の高い造りになっているのだが、中でも格段にきらびやかな部屋がある。大広間の最奥にある、「昭君(しょうくん)の間」だ。 天井は「折り上げ格天井」という最上級の格式。漆塗りで、美しい草花が描かれている。畳も一段高く、しかも鉤型になっている「鉤上段」で、これも格式の高い造りだ。 室内に描かれた女性の絵図。これは中国の絶世の美女・王昭君を描いたもので、ここから「昭君の間」と呼ばれるようになった。ではなぜ、わざわざここに王昭君を描いたのか。熊本市教育委員会によれば「昭君、しょうくん、しょうぐん……実はここは、“将軍”を連れてくる予定だったのではないかな、と。豊臣秀頼を迎えるために」 当時大坂城にいた秀吉にもしものことがあった時、その息子である秀頼を迎え入れるための場所として、この部屋を用意したのではないか、と言うのだ。

さて今後、修復はどうかというと、戦国時代より石垣を築き上げてきたプロ集団「穴太衆(あのうしゅう)」の末裔による建設会社、粟田建設(本社・滋賀県大津市)の復旧へ向けての課題は・・・。 穴太衆とは?―― 戦国時代以降、石垣のある城が一般的となり、穴太衆は織田信長の安土城をはじめ、 豊臣秀吉、徳川家康ら全国の大名から石垣づくりの要請を受けた。彼らが石の組み方を考える際には、石の集積場に行き、たくさんの石の周りを1、2日かけて周りながら、ひとつひとつ違う石の性質を把握し、頭の中に配置を組み上げるとか。「石の心の声」を聞くことができる職能集団である。穴太衆積の技法は今日まで、口伝で継承されている。秘伝というよりは、文字に表現することが難しいから。穴太衆は石の目利きであり、独特の空間認識能力を備えた職人の集まりなのだ。粟田建設は穴太衆の末裔であり、安土城、彦根城、竹田城跡などの石垣修復を手掛けてきた。巧みな技術で、現代建築への応用にも貢献している。

城づくりの名人、加藤清正が17世紀初めに建築した熊本城は今回の痛手から修復できるのか? 第十五代穴太衆頭の粟田純徳社長いわく

「下の方が緩やかで、上部は垂直に近くなる“武者返し”。あの勾配を再び出すのは相当、難しいでしょう。また、崩れてしまっては、積んであった石の元の配置が分からない。……石ごとに刻印があり番号が分かる場合もあるけれど、すべては無理でしょう」。清正自慢の「武者返し」が、再建では高いハードルとなるようだ。バラバラに崩れてしまった石は、過去の写真や映像などを手掛かりに、積み直すらしい。「上に建物が載っている石垣は、重機を使えないため、崩れた個所や、傾きを少しずつ直していかねばならない。石垣以外の部分が二次被害を受けないように配慮しながらの難工事となります」(粟田社長) 熊本城は西南戦争(1877年)で一部を残して焼失、1889年に起こった熊本地震でも石垣の一部が崩れた。櫓、城門、塀はいずれも重要文化財。中でも倒壊した櫓は、清正が築城した当初から残る建造物である。 粟田社長は、「ニュース映像などを見る限りでは」と前置きしたうえで、「石垣は何度も修復を重ね、ある時期に直した箇所がごっそり崩れ落ちた可能性が高いのでは? 穴太衆が関与していない工事もあるはずです」と指摘した。言外には「穴太衆の技なら、一部の石が落ちても石垣は崩壊しない」との自負をのぞかせる。 しかし、過去の工事の詳細は分からない。一般的に、昭和20年代から30年代、つまり戦中・戦後の混乱期に行われた修復は、どの都道府県でも資料が残っておらず、経緯は不明。再建・改修を重ねて今日の姿になった名城ほど、技術的には“つぎはぎ”なのである。


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